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回想(備忘録)

双極性障害
初めて精神科を受診するまでの経過や休職と復職を繰り返している様子をまとめてみました。
備忘録のような形になりましたが、少しずつ書き足していければと思います。
1 人事異動
2 主査へ昇任
3 入院
4 部下が休職
5 東大卒の部下
6 体の震え
7 精神科受診
8 1回目の休職
9 2回目の休職
10 本社へ転勤
11 3回目の休職
12 復職
13 4回目の休職
14 復職不可

1 人事異動
26歳当時(平成2年4~5月頃)<軽うつ状態>、2度目の人事異動後の4月下旬に結婚。初めて社内全体を集約する仕事に就いた不安や仕事の進め方等のトラブルで軽うつ状態を1~2ヶ月間経験。これを契機として躁うつ状態を交互に繰り返すことになりました。
32歳当時(平成8年4~5月)<うつ状態>、初めての社内外局異動で左遷と思い込み仕事上の不安と不満で退職したい気持ちが頭をよぎるほどのうつ状態を1~2ヶ月経験。妻の両親も心配して駆けつけたが治療は行わず自然に治癒しました。
36~38歳当時(平成12年4月から2年間)≪軽躁状態≫、平日深夜まで、休日もほとんど出勤する仕事中毒(ワーカホリック)化が顕著になりました。
そして38歳(平成14年)。16年間勤務した本社を離れて、県内K支社への転勤が決まりました。今振り返ると気分の波がありながらも、夢中で仕事をしていた時期でした。
2 主査へ昇任
K支社で初めての企画部門に就き滞りなく仕事をしていた2年目の40歳(平成15年)。主任から主査へ昇格しました。私はいきなり7人の部下(常勤4人、非常勤3人)を持つことになりました。そのうち4人(常勤3人、非常勤1人)が転入者又は新人で何をするにも一つ一つ手取り足取り。
それでも週に一度のミーティングを行いながら、何とか乗り切ってきました。日々忙しく過ごしている平成15年10月中旬。髭剃りをしていると右のまゆげが下がっているのに気がつきました。変だなと思いながらも仕事に出かけて毎晩遅くまで仕事をしました。数日後の朝、シャワーを浴びて髭剃りのために鏡をのぞくと明らかに右顔と左顔がずれていました。妻にみてもらうと右側が下がっているといわれました。
3 入院
その日もとりあえず出勤しなくてはと出かけたものの、顔がゆがんで明らかに眉毛が片方下がっているので病院へ行くことにしました。上司にちょっと診てもらってきますと言い残し、病院へ。受付近くで案内役をしていた看護師さんへ何科を受診すればいいか訪ねると麻酔科へ行きなさいとのこと。予想外でしたが、麻酔科の外来はそれほど多くなく、あまり待ち時間なしで診察室へ通されました。
診察室に入ると男性医師が、いつからこういう症状が出たか、寒い風に当たらなかったかと尋ねてきました。そしていきなりすぐ入院してくださいといわれました。えっ。と思ったのですが、間髪入れずに男性医師は、これは顔面神経麻痺です。ベル麻痺といもいいます。原因はウイルスで誰でも持っているウイルスです。疲れがたまっているときなどに発症します。それでは、脊髄に管を通しますから、職場や自宅など連絡するところがあれば今電話してきてください。いわれるまま連絡してそのまま2週間の入院。
退院するまで毎日点滴。濃度をだんだん薄くするために2週間の期間が必要ということらしい。動かない右顔をマッサージするよういわれる。ピキッと顔面に電気が走ったような感じがした。その後から少しずつ動くようになった。退院する日が決まった翌日早朝上司に電話をした。そして職場に顔を出しました。
上司は間髪要れずに個室に案内しました。まるで職場に出ると困るような感じでした。個室で退院後の様子を形式的に尋ねられました。そしてこういわれました。しばらく自宅で療養していてくれないか。君の後任として隣の課から配置換えをして、君の席で仕事をしてもらっているんだ。1ヶ月は仕事をしてもらうつもりなんだ。そのくらいしないと成果が出ないだろう。
上司は私が長期で不在になると勘違いしていたらしい。それで人事という特権を行使して職場で権威を見せつけていたようなのです。そんなところに私が思いがけず退院してきたものだから、あわてて個室に呼び込み自宅療養を命じたわけです。それも2週間。横暴なことだと思いつつも逆らえずに了承しました。入院から1ヶ月。ようやく職場に復帰して忙しい日々を送りました。
39~40歳当時(平成15年4月から1年間)≪躁状態≫当時は、朝6時半頃から職場で仕事を始め、休日も出勤してその後家に仕事を持ち帰るなど、仕事が手放せない躁状態を経験。本人や周囲に病識はなく、精神科は受診していません。
4 部下が休職
新しい年度になり、私の部下7人のうち5人(常勤4人、非常勤1人)が転入者又は新人でした。私は自分自身の業務が忙しく、4月早々の一番不安な時期に転入者の面倒を見てあげることができませんでした。まず一人休み始めました。そして二人目が休み始めました。私はその分の仕事をカバーしながら、部下に不安が蔓延しないよう鼓舞しました。
原因は私一人のせいではないようでした。あの上司が若手職員を鍛えようと机の前に立たせて説教したり、仕事ができないとなじって同僚職員になじるよう強要したり。あるときは飲み会を設定して若手職員におごらせたり、自宅へ車で送迎するよう命じたりしているようでした。
私の部下は最長1週間以内で職場復帰しましたが、隣の係では精神科を受診して3ヶ月にもわたり休職している人が二人もいました。
5 東大卒の部下
5人の転入者又は新人のうち、一人東京大学卒業のキャリアがいました。入社4年目で本社から転勤してきた彼は社内で幹部候補生として大切に育てられている人材でした。確かに経験が多くない割りに仕事は効率的にこなすし、法律的な解釈も秀でていました。
そんなある日、本社の部長がK支社の企画担当者と懇談するということになり、その準備をしていました。私は彼にその担当を頼み滞りなく済ませるつもりでした。ところが彼は裏方という意識はなく、次々と日ごろの不満を話していったのです。極めつけは事務室内での席割りです。私は係長ということで配置されていましたが、彼にはそれが不満だったようです。本社の部長に役職にかかわりなく能力に応じて座席をかえてほしいと提案しました。本社の部長はそれでいいのじゃないかと答えました。
懇談を終えて上司は早速座席をかえました。東大卒の彼が私の席へ座り、私は末席に追いやられました。屈辱的な思いがあります。彼はヒヒヒと笑い満足しているようでした。彼は支社長とも意思疎通を始めました。支社長も東大なので目にかけているようです。私は前任の支社長と一緒に土日も仕事をして努力してきました。新任の支社長はやることなすこと前任の支社長のやり方に文句をいいました。まるで私がやると自分の意に沿わないというようです。
6 体の震え
平成16年6月下旬。仕事にいくのが辛くなってきました。手がざわざわしたり、体が震えたり。支社長のところにいくとおどおどしてしまいます。だましだまし仕事を続けていましたが、もう限界でした。
平成16年6月末に数日有給休暇を取りました。どうしても職場へ行けなかったのです。夜も眠れない状態。朝になるとガクガク震えてどうしても動けない。どうしようどうしよう。このとき妻に私は死にたいといったらしいです。自分ではよく覚えていません。仕事をやめたらどうなるかということを回らない頭で考えていた記憶があります。私には両親とも亡くなっているので、当面、妻の実家に身を寄せようか。許してくれるだろうか。
7 精神科受診
妻は、突然、病院へ行こうといいました。えっ。思いもよらなかった言葉でした。診てもらってからでもいいじゃない。仕事をやめるのは。仕事をやめったっていいよ。それよりいまは大変な状態なのだから、先生に診てもらおうよ。妻はそういいました。
病院の窓口付近で案内している看護師さんに症状を伝えたところ、精神科へいってくださいとのことでした。やはり精神科なんだ。自分は精神科のお世話になるまで落ちぶれたのだと思いました。
精神科は2階の一角になり、6つの診療科の奥のほうにありました。でも耳鼻科と向き合っているので、待合室では精神科の人も一般診療科の人も一緒にいなければなりません。精神科の窓口へいくと新患は時間がかかるので、午後でもいいかしらと優しい口調の看護師さんはいいました。はいと答えたと思います。午後2時頃という約束をして家に戻りました。
家に戻り時間がたつのを待っていると電話が鳴りました。妻が電話を取りました。さきほどの看護師さんでした。午前中の外来が多くて約束の時間を少し遅くして欲しいとのこと。午後3時に待ち合わせして病院へ向かいました。
診察室に入ると男性医師はどうしました。精神科へはどのようにして受診しようとしましたか。なかなか精神科を受診しようとはしないのですよね。でも安心してください。といいました。1時間ほど家族関係や生育歴、発症経過などの話を尋ねられました。
男性医師は、うつ病であること、車に例えるとガス欠の状態であること、ガソリンが満タンになるには休養と薬が必要であること、そして必ず治ることと力強く話しました。仕事を休むように私に同意を求めました。とまどう私に休むことが一番。薬が聞き始めるには2週間くらいかかるといいました。診断書を書き始めてとりあえず1ヶ月の自宅療養にするといいました。様子をみてもう少し伸ばすこともあると。
そして病名はどうしましょうといい、自律神経失調症と神経衰弱状態あたりかなと。なんとなく神経衰弱状態と書いてもらいました。後で知ったことですが、本当の病名は中等症うつ病であること、神経衰弱状態は統合失調症のカモフラージュで使用することが多いこと。いずれにしてもその日から休職することになりました。
8 1回目の休職
病院で処方された薬は抗不安薬と抗うつ薬でした。抗不安薬は2週間で中止となり、あとは抗うつ薬だけでした。主治医と話したことと、職場を離れることができることでとても楽になり、薬の効果だけではない安心感を得ることが出来ました。その日から睡眠もいくぶんできるようになり、なにしろ朝方のふるえもなくなりました。
休職となり、落ち着いてきたもののテレビはみない、新聞もみない、グタッと横になっている状態でした。平成16年7月下旬の診察日、主治医と休職のことで相談しました。今の診断書ではもう出勤しなけばならないけれど、無理だと思うので、8月中旬、お盆明けから出勤できるようにしたいと伝えました。主治医はそのとおり診断書をつくってくれました。最初の診断書と同様今回も職場へ妻に届けてもらいました。
この休職中に度々上司から家に電話がありました。内容は、趣味をもて、旅行にでもいけ、だらしないからこんな病気にかかるんだ、しっかりしろ・・・。うんざりでした。
職場復帰した後も上司は毎日個室に呼び出し説教でした。内容は、趣味をもて、旅行にでもいけ、だらしないからこんな病気にかかるんだ、しっかりしろ・・・。休職中と全く同じでした。
そして、職場で自分のする仕事はありませんでした。毎日職場へ行くものの夕方まで黙って席に座っているだけ。そして上司に個室に呼ばれ・・・。地獄のような日々でした。
9 2回目の休職
平成16年10月上旬また上司に個室に呼ばれました。ついに私は上司に反論してしまいました。今思えば躁転したのかもしれません。休職中から毎日毎日説教されてもううんざりです。こんなやり方はやめてください。以前、部下が次々と休暇をとったのは上司のせいですよ。わかりますか。上司らしく我々のみこしに乗って担がれていればいいのではないですか。
上司は私に精神病だから仕方ない。我慢してやるといいました。唖然。私は今日通院日なのですが、体調がよくないので、少し休ませてもらうことになるかもしれませんと伝えました。
その日は休暇を取り、病院へ行きました。主治医に報告したところ、躁転については疑わず、私の要請どおり6週間自宅療養を要するという診断書をつくってくれました。また、妻に届けてもらいました。
この休職中はとにかく喪失感がひどくて、もう何もかもいやになったという感じでした。妻と一緒に買い物にいったり、図書館にいったり、できるだけ歩くように心がけていました。
あの上司からの電話はなくなり、ナンバー2が電話をしてきました。普段話をすることもない人だったので、電話でも会話は成り立たなかったのですが、上司から命じられていたのでしょう週に1回くらいは電話をしてきました。
そしていよいよ復職。ついに回覧物も全く回ってきませんでした。完全に蚊帳の外。何やら職場で口裏をあわせているようでした。
平成17年3月中旬。人事異動内示前後の約1ヶ月間に気持ちが落ち着かず携帯電話で掲示板サイトに深夜まで頻繁に書き込んだり、人事異動の内示当日に温泉旅行へ一泊二日で出かけるなど、行動の異変が見られるようになりました。その他に名称公募サイトに30点以上応募したり、プロジェクトを提案してプレゼンテーションで熱弁を振るったり、普段では考えられない行動が目立つようになりました。
10 本社へ転勤
平成17年3月下旬。早々に引越しをすませ本社への転勤準備を始めました。ところが、新しい職場で早々に漠然とした不安に襲われてうつ病の治療を継続するとともに休職してしまいました。
新聞やテレビへの興味や関心がなくなりましたが、突然、車の買い替えを思い立ち、2日間でディーラー3社と交渉して購入するなど、奇異な行動が続きました。その後、通院中に多弁となり主治医から躁転を指摘されて双極性障害の治療を開始しました。
11 3回目の休職
平成17年4月、本社に転勤してわずか10日で休職となりました。うつ病ということでの休職でした。その後多弁となり双極性障害(躁うつ病)の治療を開始しました。うつ病のときとは全くちがうショックを受けました。自分は精神病なんだ。もう復職することなどできないかもしれない。
休職当初は睡眠もとれず、薬の副作用でふらふらして歩くと転ぶし、とにかくおしゃべりがとまらない。話しているので、ご飯も食べれない。当時の主治医から奥様が一番被害者なのだからといわれた。たしかにそうかもしれないと思いました。
妻の実家にもこういう病気で休職していると妻を通じて伝えました。数日後、実家からご両親が尋ねてきました。でも責められることもなく本当に感謝しています。
12 復職
平成17年8月中旬。4ヶ月の休職を終えて職場復帰しました。復職前に職場の人事当局と精神科医の先生方を相手に私と妻そして新しい職場の上司が交代で面接を受けました。その結果、午前中の半日勤務を1ヶ月続け、平成17年9月中旬からフルタイムで勤務することになりました。でも残業と出張は禁止でした。
一週間を通して勤務するのが辛くて休みをはさみながら出勤を続けました。平成17年12月に入り体調が安定したこと、職場からのプレッシャーなどで少し早いと思いましたが、平常勤務可能の診断書を提出しました。しかし、診断書を主治医が書かずに受付の女性が作成するなど、これまでの診療所への不満が募り、転院を決意し、平成17年12月中旬から新しいクリニックに通院することにしました。
顔面神経麻痺で入院後、精神疾患で3度の休職、復職を繰り返してきましたが、日々の勤務を積み重ねて2年半が経とうとしています。
13 4回目の休職
平成20年4月、本社内で人事異動となり着任しましたが、初日に勤務しただけで漠然とした不安に襲われて4回目の休職を取ってしまいました。
最初はうつの症状でしたが、4月下旬ころからだんだんと躁状態になり、職場の呼び出しや急な主治医との三者面談の要求などでこれまでに経験したことのないほど大きな躁状態に向かい、匿名の投書で職場を糾弾するなど取り返しのつかない大変なことをしてしまいました。
平成20年8月に糖尿病、平成20年11月から12月に狭心症、平成21年3月にクッシング症候群の疑いで自宅療養中に3回の入院を経験しましたが、平成21年1月以降は精神症状も落ち着いてきており、安定した生活を送れるようになりました。
しかし、職場復帰については、早く復帰したほうがいいと思いながらも自分自身で決めかねているような状況でした。
14 復職不可
平成21年3月で休職期間が満了することから平成21年9月まで休職期間を延長するよう手続きを行いましたが、職場の上司から復職できるのではないかとか、嘱託精神科医から長く休むのが一番困るなどといわれたことから、平成21年4月からの復職願を提出しました。
平成21年3月中旬、職場の人事担当、上司、精神科医などで構成する復職審査会へ出席したところ、4月は人の入れ替えがあり復職のタイミングが悪いとか、復職を焦っておりもう少し療養したほうがいいという意見があり、復職不可となりました。
あらためて平成21年9月まで休職期間を延長するよう手続きを行い、休職を続けることになりました。

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